「Fallout 4って評判はいいけど、途中でちょっと手に負えなくなってしまった…」
そんな経験、ありませんか?
広大な世界、自由度の高さ、そして根強い人気。
それなのに、なぜか途中でゲームから離れてしまう人が少なくありません。
かくいう私も過去に2度、プレイの途中で足踏みをしてしまいました。
しかし、今回、その「立ち止まってしまった理由」を深く掘り下げたことで、このゲームの真髄が少しずつ見えてきたように思います。
この記事では、私がなぜFallout 4で一度立ち止まったのか、そしてなぜ今なら心から楽しめるのかを、人気海外ドラマ「ウォーキング・デッド」や他のゲームの例を交えながら、皆さんと共有したいと思います。
目次
ベセスダゲームの奥深さと、時に感じる「戸惑い」
Fallout 4を手掛けるベセスダ・ソフトワークスのゲーム(スカイリムなど)は、その自由度の高さで世界的に愛されています。
広大なオープンワールド、無数のクエスト、プレイヤーの選択が結果に影響を与えるロールプレイングは、熱狂的なファンを生む大きな魅力です。
しかし、この自由度の高さゆえに、特に初心者には「何をしていいか分からない」「複雑すぎる」と感じさせ、プレイへの戸惑いを覚えることがあるかもしれません。
私の場合、Fallout 4で最初に感じた戸惑いは、メインストーリーの導入直後、「ミニッツメン」という勢力との出会いでした。
彼らは「弱者を助け、コミュニティを再建しよう」という正義を掲げ、プレイヤーに「入植地の管理」という役割を委ねます。
私はシムシティや箱庭内政も好きなので、最初は興味を引かれました。
しかし、クエストをこなすたびに入植地が増え、住民の幸福度や防衛、食料、水の確保といった「管理タスク」が、メインストーリーそっち抜けで、どんどん増えていったのです。
「あれ?この管理、どこまでやればいいんだろう?供給ラインがなぜか繋がらない…。」
ちょっと完璧主義な側面がある私にとって、意図しない規模の拡大と、システムが不透明でうまくコントロールできない管理要素が、純粋な「遊び」の体験を「義務感」や「作業感」に変えていったように感じられました。
この戸惑いが、私が一度プレイを中断してしまった大きな要因の一つだったように思います。
ウォーキング・デッドが映し出す「リーダーの選択」とゲームの自由
このゲームで感じた「戸惑い」を掘り下げていくと、人気ドラマ「ウォーキング・デッド」のある構図が、このゲームの深い魅力を教えてくれたように感じました。
ドラマには、コミュニティを築き、理想の社会を再建しようと奮闘するリック、恐怖によって秩序を保つニーガン、そして誰にも縛られず、荒野を力強く生き抜くダリルという対照的な人物たちがいます。
- リック(理想を追うリーダー):彼の行動原理は「家族とコミュニティを守る」という大義。
しかし、その大義のためなら時に非情な決断を下し、他のグループを犠牲にすることも厭いません。
彼の「善かれと思って」の介入が、結果的に新たな争いや犠牲を生むことも少なくないように描かれています。 - ニーガン(恐怖で統治する者):悪役として描かれていますが、無法地帯で恐怖政治によって秩序を保ち、資源を分配していました。
リックの理想主義的な介入が、かえって新たな混乱を招いた側面もあり、彼の統治は「現実主義」の一つの選択として提示されているようにも見えます。 - ダリル(一匹狼のサバイバリスト):彼はコミュニティに貢献しつつも、単独行動を好み、卓越したサバイバルスキルで荒野を生き抜きます。
無駄な争いは避けるが、信頼する仲間や本当に助けが必要な者には全力を尽くす。
強制された義務感や、複雑な組織の論理には深入りしない傾向があります。
私がFallout 4でミニッツメンの管理に戸惑ったのは、リックのように「正義」の名のもとに「大義」を掲げられるものの、その過程で「自分の意図しない複雑な状況」や「面倒な管理タスク」が、その時求めるゲーム体験とは異なる形で増えていったからだと気づいたように思います。
「デイズゴーン」と「ラスアス」が明確にした、ゲームに求める「質」
この発見は、他のゲーム体験にも通じていました。
- デイズゴーン(私には楽しかった):主人公ディーコンは、まさにダリルを思わせるバイカー。
広大なオープンワールドをバイクで駆け巡り、フリーカーの群れや敵対者を相手に、自分の力でサバイバルする。
キャンプはありますが、その管理は非常にシンプルで、複雑な人間関係のしがらみは感じさせません。
「一匹狼として荒野を生き抜き、自分の力で問題を解決する自由」がそこにはあったように感じます。 - ラスアス(開始早々プレイを中断した):世界観は素晴らしいものの、物語は極めてリニア。
主人公たちの深い人間関係や葛藤が中心に据えられ、プレイヤーは物語を追体験する形になります。
これはこれで魅力的なんです。でもゲームである以上、「自分の操作や選択が世界に影響を与える」ことを重視する私にとって、これは「決められた物語をただ追体験する」ということから、あくまでも個人的に継続する意味を見出しにくかったのです。
つまり、私がゲームに求めていたのは、「自分の意志で自由に介入し、時には自分の信じる道のために排除する選択もできる」ような、究極的なプレイヤーの主体性だったように思います。
なぜ、いかにFallout 4が「凄い」のか?:感情と価値観のシミュレーション
Fallout 4の真の凄さは、その自由度が、プレイヤー自身の「感情」と「価値観」のシミュレーションを可能にしている点にあるのではないでしょうか。
- このゲームは、プレイヤーが、時に「悪役」として描かれるニーガンのような存在の「統治の是非」を体験的に問い、受け入れるか拒否するかを選ぶ自由を与えてくれます。
- そして、もしリックのような「自身の価値観や善意の押し付け」と感じるリーダーに出会ったとしても、あなたの意志で彼らと「関わらない」という選択や、さらには「自分の意志で排除する(自分の中で切り捨てる)」という選択を望むことも可能です。
もちろん、ゲームの進行上、ミニッツメンのリーダーであるプレストン・ガービーなど、一部の主要NPCは通常のプレイでは殺すことができないといった制約はありますが、この「善にも悪にもなれる」自由こそが、ベセスダのゲームが持つ大きな魅力の一つだと私は思います。 - プレイヤーは、自分の行動とその結果に責任を持ち、決まった「正解」のない世界で、自分自身の物語を紡いでいく。
これが、Fallout 4が多くのプレイヤーから熱狂的に支持される理由であり、そして理解するまでが難しい理由でもあるように感じます。
再びウェイストランドへ:一匹狼とレッドロケットでの再出発
今回の深い自己分析を経て、私はFallout 4の「自分だけの物語」を紡ぐ準備ができたように感じています。
私は今、レッドロケット・トラックストップを自分専用の基地として、コズワースとドッグミートという気心の知れた相棒だけを連れて、ウェイストランドを自由に探索しようとレッドロケット・トラックストップにいます。
現代社会は情報過多で、物事の真意は一見しただけでは分かりづらいものです。
善か悪か、何が正しいのか、簡単に判断できない状況も多いのではないでしょうか。
このゲームの旅は、そんな現実と重なる部分があるように感じます。
だからこそ、情報は受け身で取るのではなく、言われたこと(クエスト)を疑問を持たずにこなすのではなく、まずは自分が信じられる情報を集める旅から始めることが大切なのではないかと、このゲームは教えてくれるように思います。
そして、真に「これだ」と思えるものに出会った時、ダリルのように、自分の意志で深く関わり、行動する。
Fallout 4での冒険は、ゲームを自分の価値観に合わせることで、これまでの「戸惑い」が「究極の自由」へと変わる体験となるかもしれません。
このゲームが提供する「自分の意志で判断し、行動する」という体験は、情報過多で複雑な現代社会において、物事の本質を見極め、自分なりの「大義」を見つけるための、貴重なシミュレーションの場となり得るのかもしれません。
さあ、あなたの内面に潜む、あなたの大切な価値観を探しに、あなただけの物語を見つける旅に出ましょう!
この記事を書いた人
山口亨(中小企業診断士) UTAGE総研株式会社 代表取締役
公的支援機関を中心に、長年にわたり中小企業支援に携わる経営コンサルタント。
代表著作に「ガンダムに学ぶ経営学」「ドラクエができれば経営がわかる」がある。